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灰色の手帳 由香里 ―水底から― 第二十七話『腿を滑るエプロン――街を見下ろして』

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2013 / 06 / 05  Wed
由香里Ⅰ   
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 エプロンと言っても、それは肩紐もついていない、ウエストから垂れ下がるだけのものだった。
 腰に巻いたそれを解く。

 ただ、巻きなおしてみるだけ――。

 そう言い聞かせながら、頼りない紐の結びどころを慎重に吟味している。もとより衣服の摩擦の上に巻くものだから、女のなめらかなクビレにはどんなにきつく巻いても、どこかおぼつかないのだ。

 いろいろな巻き方を試した。普通ののやりかたも、普通でないのも。
 むき出しの胸を、なんとかもうひとつの秘部と一緒に隠せないかと、四苦八苦もした。
 お尻を隠せないかと――最悪なことに、そのエプロンは腰周りの前半分しかおおってはくれなかった――格闘もした。

 その結果わかったのは、ざらざらした硬い布地のこのエプロンは、すべてを覆ってはくれないということだった。

 何かをむき出しにしなければならない――。

 どこで結ぼうと、裸同然かもしれない。それでも……。

 腰骨を覆うように布を一周させると、だらりとたれた紐を、簡単には落ちないよう固く結んだ。
 普通なら腰を一周させてから前で結ぶところを、由香里は後ろ側のお尻の窪みのくびれより下、ずり落ちないぎりぎりのところに巻いたため、結ぶというよりは折りたたんだところを摩擦で引っ掛けるような格好で、おまけに腰骨の上は不安定だった。
 下の毛の端をかろうじて覆ったその前部に、だらりと下がった前垂れ。
 由香里は、それを慎重に股の下に通し――後ろから引っ張り上げ、股の間に巻きつけて――結び目のあるところに、ほどけないようそっと挟んだ。

 ガラスを見る。暗い目で見返している、自分の姿――。

 奇怪な格好だった。
 股間に向かって巻き込んだから、本来腿の外側まで覆っているはずのラインは、急カーブを描いて両腿の源に向かって落ちていく。
 後ろはといえば、何とか届いた、舌のような前垂れの先を、紐が被さって肌に留めている。

 いわば、エプロンを強引に、ふんどしのように、履いたのだった。

 目を伏せる。

 卑猥だし、滑稽でもあった。素っ裸でいたほうが、まだマシかとも思えた。

 だが、安心感には代えられなかった 。下半身にまとうものが、すくなくとも衣服のように「閉じている」こと。
 お尻を街の灯の中から守ってもくれない布など、却って人目を呼び込む旗でしかなかった。

 ふと、我に返る。
 駄目だ。すっかり、行くことを前提で考えている。

 もはや、胸の内の炎を誤魔化すことはなかった。

 窓の索に足を乗せる。

 まだ、行くとは決め手ない。感触を、確かめているだけ――。

 足を上げた格好だと、よじれたエプロンの生地はほとんど腿の肉の中に埋もれてしまった。横から大胆にはみ出したお尻は、真っ白に闇の中に顕になっていた。

 あまり、ここに長くいるのは……。

 窓枠の足に力を入れる。

 左右を見渡す。

 大丈夫。誰もいない。

 窓の上の縁を両手で握る。そして桟に慎重にもう一方の足を乗せると――。

 小さな街のひっそりとした狭い路地の数メートルの中空。
 白い体がくるりと身を翻した。次の瞬間、由香里は両手でしっかりと窓の枠を掴みながら、中腰になって窓の桟の上に立っていた。

 結び目を刺激しないよう、震える脚を必死に抑えながら、腰を器用に位置取る。少し力んだり、腰を不用意にねじったりすれば、あるいは……。手がふさがった今の状態では、この重いエプロンが路地の下に落ちる前に掴むことなどできはしないだろう。

 バランスを取る為に脚を開き踏ん張ったその姿。今はとても、恥じらう余裕などない。
 ゆっくりと下を見た。尻餅をついた、では済まされない高さになりつつあった。下には自転車が放置されていて、そのすぐ傍には換気扇がうなり声を上げている。
 少し気を緩めれば、とても無事では済まないだろう。

 それでも、焦らずにはいられない。
 この街の数少ない光源である駅の明かりはこの路地にも差し込んでおり、今にも由香里の肌を照らしているのだ。殆どの場所からは死角ではあるし、こんなところに視線を向ける人は少ないだろうが、背景が真っ暗なため、由香里の白い裸身は目立つに決まっているのだ。
おまけに、腰には黄色いエプロンを「履いて」いるのだから……。

 窓枠を持つ手が震えるが、慌てずに、しかし、急がなかればならない。

 慎重に、腰を落とす。お尻が膝より下の位置まで来ると、ピンと張った前垂れがいよいよはじけそうになった。
 既に後悔していた。今すぐにでも、窓の中に飛び込みたかった。

 だが、そうしてしまえば、ここまで来るのにまた時間を浪費するのだ。

 行くしかないのなら、できるだけ早く……。

 右足を、突出したコンクリートの出っ張りの上に乗せる。重心を移すのも、この格好では慎重にやらなければならない。内股が吊りそうな位、からだの筋肉をこわばらせている。火事場の馬鹿力という奴だろうか。

 足がかりをえいっと蹴り――由香里は柵へ飛び移った。

 意表を突かれたのは、ほとんど壁のように見えたそれが、思ったより柔らかかったためだ。金網はどこかが破れていたらしく、由香里をぶら下げたまま、激しくたわんで、大きな音を立てた。

 一瞬、金網から足を踏み外しかけた。

 金網のどこかで切ったのか、右の脛に裂けたような痛みを感じるが、いちいち確認はしなかった。
 駅からの視線から隠れた――建物の裏に回りこまなければ――いそいそと、体を店の影、左へと移動させる。

 はっとして、手を腰にやる。
 腰に、かすかに痛い、あの布の感触がなかった。

 錯覚だったようだ。紐は腰をぐるりと回って、かろうじて繋がっていた。ただ、さっきお尻を沈めたときに引っ張られて、股のあいだに巻き込んだ前垂れは少しだれてしまっていた。

 秘所を包んでいた感触は弱まっていた。ショーツの優しくぴったりとしたそれとは違っても、ベッドの中でシーツをギュッと挟み込んだときのような、あの感触は。

 心臓がきゅっと小さくなる。

 あとで、結び直さなきゃ……。

 駅のある方角からは完全に死角に入った。問題は、目の前に広がる民家の壁、そしてその両脇からちらりと見える住宅街だ。

 民家群の堤防の左端は、川が民家を囲むようにカーブしていて、そこに橋が架かっていた。橋の向こうには、公園が見える。いずれも人影は、いまのところ、無かった。

 右を向くと、川は民家の壁と雑居ビルにはさまれて、延々とまっすぐ続いていた。ここから民家の壁の、ここから川に平行に十数メートルほどの辺りに、目当ての家が見える。そこから更に進んだところには、ガードレールつきの橋が見えた。

 二つの橋に囲まれて、毛虫のように、金網にしがみついていた。

 金網が静まってからも、体はすぐに動けなかった。飛び移ったときの、犬が小便をするようなポーズのまま。
 夏の夜の湿気と、川の冷気の混じった空気の感触、木々の匂い、その中に混じる家々から漂うであろう花の匂い、洗剤の匂い、鈴虫の音、水の流れる音……。

 すぐにでも、柵を乗り越えて、走るべきだ。川の水音を派手に鳴らそうと、全速力で走り、服を盗んで、どこかに身を隠すべきだ――。

 それが事前の作戦だったし、実際、悩むのが一番危険で、無謀なのだ。
 遠く、目標の家の更に奥にある橋を、闇に溶け込んだ車が、さあっ、と音を立てながら通り過ぎた。

 静かなショックが、心を打ちのめす。今、人が通った。

 人は、いるんだ。この暗闇の中にも、人はいる……。今だって、この闇のどこかで……。

 金網から体を遠のけた。上を向いたまま潰れていた両の乳房の、左側の乳首が、金網の隙間から、家々の立ち並ぶあちらの領域にあることに気づいたからだった。

 下を向いた。金網で踏ん張る真っ白な足が見える。それは、病弱を思わせるほどに、不思議と白く見えた。

 可能な限り上を向いた。
 足を広げても、落ちないだろうか。
 いつでもエプロンに手を伸ばせるよう心の準備をしながら、イモリのように這いつくばって、金網を昇る。無理に拵えたショートビキニは、肌からやすやすと滑って、その陰になるべき箇所に時折風を運んだ。
 元より、入り組んだ股部を覆うにはあまりに伸縮性のない、硬い布地は股布の役割には不向きには決まっていたが、それが恐れていた以上に滑りやすく、肌にまるで馴染まないことに、次第に不吉な考えが強まっていた。
 今に、このぎこちないビキニは……。

 壊れるのを恐れるあまり、計画よりはるかに遅く、のろのろと進まなければならない。だというのに、皮肉なことにも幅広の前掛けを無理をして狭い股下に潜らせている為に、由香里はこの哀れな晒し者の時間、なんともみっともない姿を取らざるを得なかった。足を少しでも閉じれば、内ももに引っかかった前掛けが引きずられて、その先端が挟まったところから抜けてしまいそうだった。

 そうなれば、前掛けはだらりと下に垂れて……。

 かと言って、後ろの結び目を手で抑えるわけにもいかないのだ。片手は金網に、もう片方は乳房を覆っているのだから。

 そう、少女はかたくなに、胸を顕にしなかった。どんなにバランスが危うくなっても、登るのに不都合であっても、左手は右の乳房を、そして左の前腕を押し付けるようにして器用に乳首を覆い隠していた。
 体を曲げ縮めて両足を進めては、さっと金網を離し、体が後ろに倒れてしまわない内にさっきより少し上のところを掴み取る。
 ひとつ手順を間違えれば、終わりだった。

 こんな状況だというのに、由香里は一秒でも早く登りきりたい一心だった。自分の姿のはしたなさ。
 丸出しの胸。背中。下着よりもきわどいラインで、膝の付け根の筋など丸きり露わにした卑しい姿。
 性器だけを執拗に隠していることが、却っていやらしく、自分の体を誇示しているようにすら感じられた。

 ――ああ、わたし、なんて、なんて……。

 再び。
 橋を車が通る音がした。水音のなかでも、アスファルトは乾いた音を立てた。
 強ばらせていた体をほぐして再び登ろうとしたとき、由香里は違和感に気づいた。
 確かめようにも、そこを手で撫ぜられる有様ではない。
 代わりに剥き出しになったお尻を撫ぜたのは、風だった。

 ***

 すぐさま由香里は乳房を覆っていた左手を使い、エプロンの背中の方、前掛けの垂れた側の紐部分を掴むと、上に引き上げ、さらに前へと引っ張った。遠心力と緩やかな風にのって、前掛けがフワリと舞った。下半身からさあっと、産毛が逆立つ感じがした。

 前掛けは一八〇度回転した紐に引っ張られ、股下からすり抜けると、打って変わって本来あるべき、体の前部へ躍り出た。ただし、その紐は少しゆるみ気味であったが。

 股に手を伸ばし、前掛けを後ろの紐に挟もうとする。だが右手は金網を掴んだままのため、体を折り曲げることができず、前掛けを股から潜らせるには手が伸びきらなかったし、後ろでもう片方の手で受け取ることも叶わなかった。
 お尻を突き出し、折れ曲がった膝の下から前掛けを掴み、巻きつけるように後ろへと回す。
 だが、今度は長さが足りなかった。エプロンを回す時に、腰骨のあたりから引き上げたせいかもしれないし、隙間なく引っ張っているつもりでも、片手では限界があるのかもしれない。
 そもそも、暗い落ち着いた部屋で何とかやったことを、今この状況でやろうというのが無謀かもしれない。

 冷静なようで、少女は精神のぎりぎりのところにいた。とっさの判断でエプロンを回し陰部を隠したのは、ほとんど本能によるものだった。それも、いい判断とは言えなかった。あのときエプロンを引き上げずに、前掛けだけを引っ張って前側の紐に差し込んでいたら、応急措置としてはそっちのほうがマシだったかもしれない。

 見えない手に悪戯されているようだった。

 広げた左手の指で紐を押し下げながら、何とか前掛けを後ろに挟み込んだところで、お尻が隠れるように整えたり、あるいはそれが終わって少し歩いたところで、ぎこちないショーツの役目をしていた前掛けは、ふわりとただのエプロンに形を戻してしまうのだ。

 終いには由香里は子供のようにべそをかいていた。実際、お尻をぺろんとめくられたような姿は、お仕置きを受ける幼児のようで、由香里は恥ずかしいと同時に自分がひどく情けなく、弱々しいように思えて、それがまた一段と誇りを傷つけた。まるで、罰を与えられているかのようだった。

 ――やだ、やだ、どうして……。

 辺りを見回す。今の姿を、誰かに見られはしなかっただろうか。闇は静まり返っていた。川の音と、虫の声ばかりで、何も由香里を嘲りはしなかった。それでも、暗がりにぼうっと浮かんだお尻に指を差され、笑われているような気がした。

 諦めるほかなかった。

 今の体勢では、整え直すのはムリだった。時間をかけてそれができたとしても、その間に誰かに見つかってしまうではないか……。

 しゃくとり虫のように、無様に、懸命に、金網を登っていく。

 この柵を超えてから、いや、登りきってからでいい。

 さっきと違って、今や背後は壁なのだ。誰かに見られる恐れはない。いくらお尻をしっけた空気が舐めていても、そこに人の眼差しは紛れてはいないはずだ。前だけに、集中して……。

 今や胸を隠す余裕もなかった。体を緩やかなくの字に曲げて、四つの手足を使ってはしごを登るように金網を上がっていく。

 ――神様、どうか……。

 真横から見れば、金網から離れて宙に浮いたヒップのラインは、白い輪郭でくっきりと縁どられていたことだろう。
 怖くて顔を上げることなどできなかった。

 這いつくばって登ったかいが、あった。いよいよ、頂上まで数メートルというところにきた。 

 最後の力を振り絞り、金網の上枠に腕を乗せる。しがみついて、いよいよ身を翻そうとしたとき、このまま体を反対にしたら、川岸に向かって自分のお尻を顕にすることになることに気がついた。

 全力で降りれば、十秒もかからないかもしれない。 
 だが、怖かった。心がどうというより、体がその行為を受け付けなかった。柵のてっぺんで、頭の回転を巡らす……。

 またエプロンを回して、今度はお尻だけ隠しながら、というのもできた。それが現実的だったかもしれない。

 だがそれでは、身を翻す一瞬の間に、あそこを剥き出しにすることになる。由香里は、そんな格好で、柵をまたぐ姿を想像してしまったのだった。

 少女は、左腕と鎖骨でしっかり窓の上枠を挟んだ。右手が自由になった。
 もう一度、あの醜いショーツを作り上げようとしていた。

 できるはずだった。あとは、なるべく速やかにやるだけだった。

 今度はさっきと違って、体が安定している。
 何より、片手とは言え、紐を解くのは今度は利き手なのだ。

 だがそれが裏目に出た。

 ***

 結び目は左側にあった――だから、背中の奥に逆向きに手を伸ばす、不自然なポーズで結び目を解くハメになった。それでも、慎重に行動すれば、失敗せずに済んだかもしれない。しかし、焦っていた。ここに来るまで大分手こずった上、柵のてっぺんはあまりにも、目立ちすぎる場所にあった。

 爪ではがすようにして、絡まりあった団子から、一本の紐をつまみ出す苦労して解く。途端に、体へのストレスが、まるで浮き輪やタイヤからガスを抜いたように、ふっと消えた。

 もちろん、はじめにしっかりと結びきったときの結び目によって、エプロンは体に引っかかっていた。だが、挟まっていた前掛けが抜けた分隙間があった上、紐を引き上げたときに、遊びが出来てしまっていたのだ。

 そのことに、由香里はすぐに気づいた。ただ、気づくより早く、結び目から右手を離して、両腕で体を引き上げようとしてしまっていた。

 左の膝頭を素早く柵の向こうに回したとき、前掛けが体についてこず、ほとんど、というより左脚の全てが、もはや剥き出しになっていることに由香里は気づき――そのほんの少し前に、何か突風が吹いたような感じがしたことを思いだし――そのときこそ、由香里は紛れもなく、悪意のある見えない手が、引っ張るのを感じたのだ――自分を呪いながら咄嗟に伸ばした左手は、そのときには何も掴まず、ぺたんとスベスベした肌を打った――由香里はせめて、右手で、右半身に沿って垂れた前掛けを探すべきだったのだ――柵の”こちら側”にかろうじて残っていた右脚を、何か肌触りのよいさらさらしたものが、さあっと滑っていった。

 跨ぎかけた左足を、巻き戻しを掛けたように、”こちら側”に戻す。無駄だった。無意味だった。そんなことをしても、時間は下には戻らない。

 下を見た。脚が激しく震えている。V字の隙間から、青いものが何メートルも下の溝に落ちているのが見えた。
 その青に、V字の谷間の部分にある、ぼんやりした黒いものが重なっている
 自分の陰毛だった。

 ***

 右手で腰をさすった。手はこんなにもじんのりと湿っているというのに、腰は皮肉なほどにさらさらと、絹のようだった。

 膝をぎゅっと閉じて折り畳み、小さくなったまま、由香里は動けなくなっていた。屈辱のあまりがちがちと音を立てる歯の奥から、きゅうっと喉を締めるような音がした。

 辱めだ。

 あまりにもひどい、常軌を逸した。
 こんな高いところで、まるで木の枝の先っちょに突き刺された虫の死骸みたいに、晒し者にされて。

 涙は出なかった。そんな暇はなかったのだ。するべきことは明らかで、あとはわずかでも早く、心を固めることだけだった。

 さっきやりかけたみたいに、柵をまたぎ、”あちら側”へ降り立つ準備をしなくては。

 だが、体はもちろん、心は硬直したまま、それを許さなかった。
 できなかった。

 十七歳だ。

 できるはずがなかった。
 由香里は、何度も腰をさすった。
 太ももをなぞった。

 どこにも、糸くず一本すらない。さっきまで、おざなりながらも由香里の下半身を覆っていたものは、まるではじめから重さの無い煙だったかのように、無くなっていた。
 何かが解ける感触すら感じないうちに、手の届かないところに移動していた。

 由香里は裸だった。夜の街の、高い金網にまたがって。
 こんなに高いところだなんて。今の由香里は、一階建ての家々のいくつかの屋根よりは背が高いくらいなのだ。

 街の真ん中で、胸も恥部にも何も纏わず――白い肌を覆えるのがあるとしたら、やはり自分の白い肌だけだった。

 いやだ、いやだ、いやだ。

 どうして。こんな悪夢。

 そんな。残酷すぎる。

 エプロンは、川の側から手を伸ばしたって、届きやしないだろう。今、こちら側を降りて、取り戻す?トイレの中に引き返す?
 いずれにしても、確実なのは、逃げる道を選べば、絶対に、絶対に、由香里はこの高さまで再び登ることなどできないということだった。

 ガードレールのある遠くの橋で、またトラックが大きな音を立てて通り過ぎていった。
 左側のもう一つの橋も、視界の外から無言の威圧感を発していた。

 ここまで来たのに。でも、この状態のまま川へ降りるということは、住宅街の世界へ足を踏み入れるということなのだ。

 全裸で。

 決断なんて、出来るはずがない。
 しかし、せねばならない。

 分かっている。ここまで来て引いたって、何にもならない。もともとあんなのは、ただの慰めだった。

 由香里は柵の上枠を掴み、体を引き上げた。膝で隠れていた秘所が、憂鬱そうに、柵の向こう側の世界へ現れた。
 そしてそのまま片足を犬のように上げて――。

 ――できなかった。

 そればかりか、決死で持ち上げた中空のお尻はぷるぷると震え、元の位置へと戻ろうと叫んでいるようだった。

 ――恥ずかしい……恥ずかしい……。

 遠くに見える街の明かり一つ一つに、自分の痴態を見せつけているような気がした。そんな無数の眼を前に、股を開くだなんて――。

 そんなことは、そんなことは……。

「……ごめんなさい」

 奥歯を噛み締めたまま、少女は街の中空で身を翻した。左脚。それから、右脚……。

 ひんやりとした鉄の感触。その鉄のラインに、女の体の表面の、最も奥まったところすらこすりつけられて、冒涜されながら、由香里は体を立て直した。

 そして慎重に音を立てぬよう、一歩一歩、手足を交互に下ろしていく。川に向かって。
 柔らかな脂肪の内側の筋肉は強ばって、少女を卑小な猫背にさせた。

 手を離した。着地すると、水音が辺りに響き渡った。その音に押されるように、由香里は一歩一歩、川を渡っていった。

 顔は下に向けたまま、音を立てぬよう、慎重に。
 急がねばならないと分かっていても、ばしゃばしゃと音を立てるなど、由香里にはできなかった。
 まるで踏みしめた一歩一歩のその水音、水の冷たさが、夢でなく現実であることを確かめるかのように、由香里は川を渡っていった。もはや、自分がどこへ向かって歩いているかも定かではなかった。車の音が聞こえないように祈りながら、足元だけを見て、進んでいく。

 音が鳴るたびに、由香里の頬は興奮の色に彩られていった。

 民家に面した川を裸で歩く、非現実的な状況。倒錯感が、由香里を酔わせつつあった。川底の石の痛みが無ければ、踝まで浸した水の冷たさが無ければ、現実を見失い、どこまでもどこまでも、由香里は歩いたことだろう。

 はじめのうちは小さくなって、背中を丸めながら歩いていたが、いつの間にか、由香里は体を隠すことすら忘れた。
 ただ無我夢中で、自分の立てる水音の一つ一つに、心臓が潰れそうなほどの羞恥心を掻き立てられながら、卑しいほど愚直に前へ前へと歩いていた。

 そうこうしているうちに、土手に手を突いた。

 渡りきってしまった。

 ああ、途方も無いことをしている。
 もう、行くしかないんだ。

 これは本当に、夢じゃないのだろうか。

 土手沿いに、水の流れとは逆の方へと進んだ。

 罪悪感、羞恥、怯え、自己嫌悪、倒錯感……いろいろな感情が、川の流れと一緒に自分の足にまとわりついていた。

 顔を上げると、いつの間にか、あの橋が斜め上数メートル先にある。

 橋を支えるレンガや、橋の傍の電信柱のポスターまで、はっきりと見ることが出来る――。

 背筋を冷たい風が通り抜けた。
 これまでずっと、妄想と現実の中間を、漂っていたように思う。

 緑のにおいがする。
 水のきらめきの一つ一つが、やけに鋭いものに感じられた。外の世界の空気を感じたのが、数十年ぶりかのような、奇妙な感覚。

 そうだ、ここには、私以外の人がいる。この川の水のように、無関心に、通り過ぎて行ってくれれば良いのに。
 どのくらいまで来たのか確かめようにも、土手に近すぎて、家々を確かめることができない。
 土手から慎重に離れた。

 橋がすぐ傍にあるというのが、とてつもなくプレッシャーだった。

 恐怖の鼓動と重なるように、期待の鼓動がフェードインしてきた。
 そして――。

 間違いない。ここだ。換気扇――。それに――。
 カーテンのかかったガラス扉の枠に掛かった白いハンガー。そこに引っかかっていたのを見て、由香里は息を呑んだ。
 その衣服の正体は、体操着だった。
 真っ白な夏用のシャツ。やや薄手すぎたし、由香里よりは一回り小さい、中学生くらいの女の子の服という感じだった。

 それでも、身を隠せるものには違いない。

 由香里は、駆けていた。もたもたしている暇は無い。ゴールは目の前だった。
 飛沫を足の裏でかき散らして、コンクリートの土手に、「タッチ」した。
 顔がほころびはじめた。土手に足をかけ、登りきる、その寸前で、由香里の足は止まった。

 稲妻に打たれたような、とは、このことだろう。石になったまま、動けなかった。

 やってしまった。
 ここに来て、とうとう――。

 民家と民家の隙間、庭と呼ぶにはおざなりすぎるその外庭で、パジャマを着た少女が立っていた。由香里がまさにその細長い空間に入ろうとしたとき、突然、開けっ放しだった扉からその少女は飛び出して、由香里の行く末を遮ったのだ。
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